田中翔太ブログ 呟きやぼやき集

福岡にある大学で日々を過ごし夢を追い続けている人間の日々

〜個性尊重主義〜 スマホは顔ではない

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今回は「個性尊重主義」について考えていきます。

 

個性尊重主義には3つの条件があります

 

「個性尊重主義」

 

SNSは仮初めのツール

知名度=人気度✖︎

・好かれる努力よりも嫌われる勇気

 

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Phase 1 SNSは仮初めのツール

 

SNSとは定義で言うならば、インターネットを介して行うコミュニケーションである。

現代ではコミュケーションではなく若干「義務化」や「必須道具」と言うばかりの効力しかり問題点を生み出している。

 

問題点を例とするなら、アウトドア系の活動が好きな人の中にインドア系の活動が好きな人が輪に入るようなニュアンスだろうか。

 

これがネット社会に影響を受けている日本であり、現代人である若者の私達である。

 

これは現代のスマートフォンSNSが1番主要な原因であり、もはや人間の顔であるSNSは近年姿をまた変えて人間性を含んで成長を進めていて、人間はそれに飲み込まれていることに気づいていない。

 

正直、自分を客観的に見た時の評価を一時的に上げるために好きでも無いものを好きと言ったり、インスタのフォロー・フォロワーいいねの数だけで人間を評価しているようにしか見えない。

 

これがどういう意味かと言うと、「人間本来の価値基準」が変動しており、人の良さを欠いている状況なのである。

 

このような世の中が本当に偉人たちが求めてきた世界なのでしょうか?

 

私は違うと思う。

 

私がなぜこのようなブログを辞めず文字を打ち続けているという意味は何かメッセージを込めているという事に気付いて欲しいです。

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Phase 2  知名度=人気度✖︎

 

そもそも、人気度という概念はその人間に備わっている先天的か後天的な付加価値によって左右される。

 

知名度とは、その人間をどれほど知っているか?「どれだけの情報」があるからそれほどまで知れ渡っているか?が尺度となり、人気度には繋がらない。

 

なぜこのような話をするかというと。

この人気度と知名度によって人間の対応は変化したり変容したりするからだ。

(この場合、SNSの観点で一般人のコミュニティスペースを規定する。)

 

目の前に天皇陛下などがお見えになられたら話は別だが、一般人同士でその違いがあるのはおかしい。ましてや、同年代でその差がある事はおかしい。

 

なぜ「みな平等で平和な国!」「みんな仲良しで最高のメンバー!」と謳っているのに対し、

 

人気度という先天的か後天的な付加価値、数字ごときで人間の評価を下し、

 

ただ客観的で確立されているだけの評価のために人を毛嫌いしたり人を突き放したりするのだろうか。

 

要するに、近年の若者しかり日本の人間関係は建前で接触をしている周知の事実があるのに対し事実とは真逆の発言・人間関係を繰り返していることが問題である。

 

つまり、その真逆の行動をとれば「個性」という物は必ず尊重される仕組みを築く事ができる。

 

A:(ひとりの人間を見る)

#個性を別々の価値観として理解する#

 

 

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Phase 3 好かれる努力より嫌われる勇気

 

私が最後にこれを置いた意味は、

 

嫌いな事をしている人間に合わせる努力よりも

 

好きな事に集中している人間に合わせる勇気を持つべきという意味を込めており。

 

この認知があれば、人間は互いに嫌悪感を抱いていても価値観をインストールすることにより和解に一歩近づける事ができる。

 

しかし、「価値観の違い」だけで物事を規定してしまえば事は簡単であるが実はそうではない。

 

いわば、価値観のせいにしてしまえば何でも物事は帰着してしまい正義か悪それ以前に方向性が定まらない。

 

例えていうならば、「電車はあるのにレールが敷かれていない」状況である。

 

その価値観の違いの中で最も優位性を見出す事が全てではなく、

 

そのどちらかが「特別」であるか「個性尊重」をしており人道的で倫理性を兼ねているかに重きを置くべきだろう。

 

要するに、人のしたい事に茶々を入れる人間に対して構っている暇はないし、そもそも競っているフィールドが違うため無視というよりも、一旦自分に全ての焦点を置き何もかもを受け止めてスルーするという事である。

 

カートコバーンではないが、他の誰かになりたがることは、自分らしさの無駄遣いであり自分は自分なのでそれに肩入れしてくる人間の人選を間違えてはいけない。

 

これからの時代では恐らくもっと「個性」というものを欠いて来る時代だろう。そこで我々人間達が何を思っていき将来の子ども達に何を伝えるべきなのかを考えるころではないだろうか。

 

「個性尊重主義」

田中翔太のつぶやき

 

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